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広報ひさやま8(2007,vol437)より(*参考文献加筆)
幻の山岳寺院 白山
第3回 山岳寺院とは何か
福岡平野を取り巻く山並みがあります。西が脊振山系で、東が若杉山系です。双方に山
岳寺院(山寺)がありました。山は俗界から離れた清浄な空間でした。山は魂を救済しま
す。信者は山を訪れますが、登山は苦行で修行でもありました。僧侶は生産活動には従事
しません。寺を維持するためには信者・支持者の支援が必要です。信者は九州最大の都市
大宰府・箱崎・博多ほかに住む人々でした。山岳寺院は脊振山系には油山天福寺、坂本、
背振山、など、若杉山系には宝満山、、若杉山そして白山がありました。
つまり白山は大宰府・博多関係の山岳寺院の一つでした。白山はふつう神社の名称です
が、それを山岳寺院というのは(土着の神と仏を一緒に崇めること)だったからです。明
治維新によって分離されるまで、神様も仏様も一緒でした。よく南無八幡大菩薩といいま
すが、南無は仏へのあいさつの言葉で、菩薩は仏でした。しかし八幡(社)は神(社)で
す。
山岳宗教を信仰した人々には、当時箱崎や香椎、博多で活躍した宋人(在日中国人)が
いました。白山山頂には宋風獅子(狛犬という人もいます)が残されています。日本風の
獅子ではなく大陸系の獅子で、手に毬や子獅子を抱いています。沖縄でいうシーサァもこ
の流れをくみます。当時の日本にいた中国人が好みました。山頂から出土した天仁2年(1
109)銘のある台座には「」とありました。中国人が作成したものでしょう。このよう
に、山岳信仰は在日中国人の思想の影響を受けていました。
若杉山山頂の太祖神社に宋風獅子が残されていました。山麓の佐谷から出土した天治2
年(1125)の経筒には、「宋人憑(心をとる)栄」「弟子鄭□」とありました。太祖神
社(上宮)と佐谷は一体の信仰で、正中2年(1325)の法華経願文(筑前町村書上帳、
『鎌倉遺文』29152)によると、箱崎にて法華経1万部を読み始め、若杉山上宮で数
千部を読み、左谷山賢聖院(有智山すなわち大山寺末)で結願(日数を決めた修行が終わ
ること)したとあります。国家の庇護を受ける箱崎信仰です。
山頂に宋風獅子・宋人作経筒を残した白山もまた同一です。各山岳寺院は自立して宗教
活動を行いましたが、全体としても一つの信仰集団を構成し、巨大なる富をもつ宋人の信
仰・支援を得ていました。
江戸時代に行われていた峰入り(行者が山中で行う修行)は、この山系における一つに
まとまった山岳信仰の形態を示します。春の峰入り、秋の峰入りがあって各霊地を巡拝し
ました。元禄12年(1699)、また寛政2年(1790)など江戸時代の史料に峰入り
の記事が散見できます(檜垣文庫・要害作事箇所附、伊丹家資料・密事記)。彼らはひたす
ら山に籠もって修行するわけではなく、里や町にも出て布教を行いました。峰入りで、必
ず福岡城内・御殿に入って藩主に安全の護摩祈祷を行っています。藩主黒田氏の庇護も請
けていました。富商・宋人に替わるものが、藩主でした。明治維新で新政府は国家神道を
推進し、神仏分離という形で、敗者の宗教である山岳宗教・修験道を否定しました。山岳
寺院は一気に衰退します。
九州大学比較社会文化研究院教授 服部英雄
檜垣文庫
要害作事箇所附
寛政二年戌四月十一日金剛宝満之峯入在之山伏人数八十人程新峯五人
伊丹家資料12-13、「密事記」
元禄十二年四月十一日
竈門山愕(にんべんだった)伽院御館参、先年綱政公御厄年間、為御祈
祷当春より入峰斬(さんずい)相代廻也、今日出福、辰ノ刻上ノ橋より
御本丸へ入、夫より下ノ御館へ来、大広間ニテ月番立花平太夫対面有、
供之山伏ニハ白砂にて昆布出てセ(以下数文字)御隠館へ参、夫より直
ニ大鋸谷山へ入
久山の庄屋だった河邊文書、篠栗の坊であった石井坊文書にも関係記事
が見えている。
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