厳木町瀬戸木場

 

瀬戸木場地区での取材                                                  

1LA02028   入江 宏一

1LA02156   南野 朋樹

1.大学出発から厳木町到着

随想的に、取材当日の出来事と取材の内容をまとめていく。取材先での内容の文章

は、私達が取材先で録音したカセットテープによっている。それはさておき、私達

は、厳木町の中で瀬戸木場という地区の担当になった。教授から渡されて地図を見る

と少し歩かなければならないことは分かった。しかし、当日現地に行くときになると

私たちのそうした甘い認識は見事に裏切られたのであった。六本松を午前10時前に出

発して、福岡都市高速から九州自動車道、長崎自動車道へと進み、トイレ休憩の時間

を含まないにしても、二時間近くバスの中にいたと思う。厳木道路から降りて、続々

と服部教授の受講生たちが順番に降りていく。そして、私達も厳木中学前でバスから

下ろされた。とりあえず、地図を見ながら瀬戸木場へと向かうわけだが、すぐに私た

ちの目に次のような看板が目に入ってきた。…団地、瀬戸木場、…4.3キロメート

ル。私は、教授が授業中に瀬戸木場担当の人には、申し訳ないけど歩いてもらうよ

と、笑みを浮かべながら言われていたのを思い出した。私は、教授の笑みの意味が坂

道を見ることで初めて分かったのである。

 

2.瀬戸木場への移動

 私たちはその看板を見なかったことにして、瀬戸木場へと向かう山道へと足を進め

た。しかし、想像した以上に道は険しいように感じられた。その時、事前に取材の手

紙を送っておいた渕上さんが軽トラックで迎えに来てくれなければ、私たちは一時間

半ぐらいかけて山道を登る羽目になるところだった。本当に渕上さんが迎えにきてく

ださったことはありがたかった。渕上さんの軽トラックの荷台から、外の景色を見る

と、改めてかなり瀬戸木場は標高の高いところにあることに気がついた。眺めも悪く

はない。遠くにダムのようなもの(厳木ダムというらしい)や観覧車も見えた。後か

ら聞いたことには瀬戸木場は標高420メートルの位置であった。車に乗っていても

かなり急な山道ということが分かるぐらいなので、実際に上ろうというのはほとんど

無謀だそうである。車で10分程度かかったであろうか、瀬戸木場の公民館に何とか着

くことが出来た。正直な感想としては、こんな高台にも家があり、人が住んでいるこ

とに驚いた。

 

3.取材の導入

 そこで私たちは、年配の男性の方2人と渕上さんから話を伺うことになった。取材

を始めたのは11時前で、それからお忙しい中二時間半ほど取材をした。私達の準備不

足により、事前に質問事項を絞り込んでおくことが出来ず、聞き取った内容は断片的

になったきらいはある。しかし、どの地名が地図のどの辺かということだけはきちん

と聞くことが出来たので取材の当初の目的は果たせたと思う。そして有意義な時間を

過ごせたように思う。最初に瀬戸木場の地名が書いてある紙を見たときに、瀬戸木場

という地名自体が当て字であるということをおっしゃられていた。そして、地名全般

に言えることだが、一つの地名(例えば、西とか下がりの下などという地名)は、ほ

んのわずかな場所のこと(わずか一坪足らずのこともあるらしい)を示しているそう

である。地元の人であれば、その地名さえ聞けばすぐに分かるという。福岡市の地名

のように、どこどこ何丁目というような地名表示法自体が必要ない地区のようであ

る。このことはまた後ほど述べることになる。私の家のある鞍手町でも地図には載っ

ていないが、通称地名が数多くあり、学校行事などもその地名の地区に分かれて行わ

れていたほどである。

 

4.取材で一番印象に残ったこと

まずは、瀬戸木場の地名の一番初めに書いてあった山神社について話をしてもらっ

た。山神社は、瀬戸木場地区の公民館から少し歩いたところにあり、公民館での取材

が終わったあと、実際に言って見た印象ではこじんまりした建物と思えた。話の初め

のうちは、私のミスによってお聞きした話を録音することに失敗してしまった。これ

だけは心残りである。山神社は明治時代に「神寄せ」が行われ、各地から神様が多く

祀られたそうである。私は、このとき1年の後期に受講した「神社の近代」の講義

で、明治時代に大規模に神社の「合併」・「整理」が行われたということを習ったこ

とを思い出していた。神仏分離令などを出して、明治政府が寺社に対して影響力を強

めた時期でもある。詳しくは述べないが、こうした背景の中で「神寄せ」が行われた

のではないかと推測できると思う。山神社や山神社の森、神寄せの諸神の位置を地図

で聞いた後だったと思うが、長者谷などの谷の場所がどこかということも尋ねた。話

を聞いていくうちに、初めに示された谷の位置と異なるということもあった。

何よりも驚いたのは、瀬戸木場公民館の中に昔の農地や住居を示した地図(年代に

は、天明・元和・明暦などいろいろな時期が含まれていた)があったということであ

る。開発された田畑の時期によって色分けがしてあり、デジタルカメラがあれば、そ

れを取ってレポートに貼り付けたくなるほど精巧な地図だった。おそらく学術的な価

値もあると思われる。この地図は、取材先の方をして「これさえ見れば、私たちを取

材する必要はないねえ。」と言わしめた。それを見ると現代と違うところもあるが、

同じ所もあった。同じ部分としては、現在の瀬戸木場を走る道とおっしゃっておられ

た。取材先の方々もこれを見て感心していたようで、「これをお宝発見番組に持って

いけば、2000万円の値がつくかもね。」と冗談交じりに言われていた。取材を受けて

くださった方の中には、家がもともと庄屋であり、「家の中を探したら古文書が見つ

かるかも知れない。」と言っておられた方もいた。自分は庄屋の家系としては10代目

に当たるという。

 

4.聞き取って地図に書き取ることが出来た地名

長者谷(たん)、一の谷(たん)、下、東原(ひがしはる)、松の元、ひらんこば、

広ミ、ゑぼしわ、ほかを谷、大谷、水の元、ううを山、目はず、浦ん堤、前ん堤、丸

山、前田、丸尾、黒川、本裏、高尾、中ノ間、馬子四郎木場、駕籠立場、中部、

これらは、事前に教授からプリントを配られたので、それを見ながら地名の地図の上

での場所を当てはめていったものである。字広ミは、広く見えるからそう名づけられ

たそうである。その広ミの中を、様々な通称地名で区切っていくわけで、その通称地

名の中にはわずか瀬戸木場公民館の土地ほどの大きさしか持たないこともあるらし

い。一つなるほどと思ったことは、浦ん堤、前ん堤の場所を聞き取った時のことであ

る。これら二つの地名は、同じ溜池を表している。見る場所によって名前が変わると

いう。表の方から見ると、前ん堤、裏の方から見ると、浦ん堤というのは、非常に分

かりやすいと思った。水の元は分水嶺にあたり、ここから水が分かれている。ここか

ら取れる水を分け合うために、明治時代に合意文書が交わされたこともあったそう

だ。東原には、現在分校が移転してきている。教授から配られたこのプリントの中に

は、地元の方が知らない地名もあった。うつこし、屋敷の畑、古墓(五輪の塔四基と

一部あり)などがそれに当たる。また間違っているというものもあった。札所がそう

である。これらは、山神社の森の中にあるという。

 5.その他聞き取ったこと。

聞き取った細々としたことを書いてみたい。農作業で馬は戦後まで使っていたようだ

が、それでも昭和22年ごろまでだそうだ。その後は牛を使っていたが、昭和34年ご

ろにはなくなった。この頃から、農作業に機械が導入されるようになったからであ

る。また、かつて瀬戸木場地区には一番多い時に33軒あったが、今では23軒まで減っ

ているそうである。話によると、「田舎が好きである」という理由で他の地域からわ

ざわざ瀬戸木場に移ってきた人もいるらしい。また、今瀬戸木場地区には田んぼを

持って耕作している家は一軒だけだそうだ。戦後政府の施策として行われた減反によ

る影響を受けたのである。また戦時中には、馬を連れて訓練に行かなくてはならない

こともあった。強制的な徴発だったという。

また、かつては今ほど土地の境界がはっきりしておらず、天領と外様大名の土地の境

界が縄でくくられていたこともあったそうである。

 

6.瀬戸木場からの帰り道

 帰りは歩いて坂を降りた。行きは車だったので全く疲れなかったわけだが、さすが

に帰りは一時間以上かかったように思う。途中何台もの車とすれ違ったが、訝しげな

目で見られてしまった。それは、当然だろう。こんな坂を下ろうという酔狂な人は

めったにいないと思うからである。眺めのいいところを降りていくのはなかなか気持

ちよく、ハイキング気分になっていた。しかし、山を降りた後時間をつぶすのが大変

で、あちこちをうろうろして、地元の温泉施設の中に入ったりもした。バスが迎えに

きて、九大に帰り着いた時にはすでに午後8時前になっていた。大学の講座生として

取材に行くというのは初めての経験であったが、なかなか有意義な時間を過ごせたと

思う。

 

 

7.取材をした方々へのお礼の言葉

最後に取材先の方々に心からお礼の言葉を申し上げたいと思います。私達が、取材の

内容を事前に2人で細かく検討していなかったために、何を話していいのか分からな

かったかもしれないのにもかかわらず、貴重な時間を私たちのために割いてお話をし

てくださいました。私達が取材の目的を達成することが出来たのは、皆様のご協力が

大きいと思っています。つい、話をお聞きした二人の方の名前をお聞きするのを忘れ

ておりました。どうも失礼しました。これは、皆様から聞き取った内容をもとにして

作ったレポートです。お読みくだされば幸いです。