【藤津郡太良町大字多川原】

歩き・み・ふれる歴史学 現地調査レポート

 

調査日 200771

1LT01118 福川雅子

1LT01153 山口小百合

協力者 山崎昭さん 昭和12年生

・ 川原(コウバル)

川原地区には72戸6班がある。上川原に主に住宅があり、下川原はほとんどが水田である。というのも、上川原には湿田があり、圃場整備前は米作に向かないに地があったからである。昭和30年頃、上川原、下川原が合併し、川原地区となった。山崎さん曰く、「前は端月も一緒に川原て言いよったもんね」とのこと。

最初、川原と書いて(カワラ)と読むものだと思い、地図にもそう書いてあったのだが、

山崎さんにお会いして(コウバル)と読むことがわかった。

・ 八ケ村(ハッカムラ)

川原の6班のうちの]班をいう。八ケ村という名はしこ名で、八つに分けられる。その八つとは、

正知田(ショウチダ)、

犬角(イヌカド)、

座木(ザギ)、

六地蔵(ロクジゾウ)

山神(ヤマガミ)、

掛林(カケバヤシ)、

川良(コウラ)の七つと、あと一つは不明である。

☆正知田の由来

 大昔、正知田付近の山に城があり、その周辺で戦争がおきた。その時、人の血が醤油のごとく流れたことから、正知田という名前がついた。また、その戦争で矢が流れた場所は、流矢(ナガレヤ)といい、矢が応えた場所は、矢谷(ヤゴタエ)という。戦争の城跡は、山の下なので山下(ヤマシタ)というしこ名がある。

☆六地蔵の出来

 その名の通り、六体の地蔵があったらレハ。

☆座木

 7つの中で座木だけはしこ名である。

・ 文城寺(ブンジョウジ)

「文城寺てしこ名があるもんね。昔、寺があったんかもしれんねー。文城寺て村口さんとこだけを言うもんねー。」と住宅地図を見ながら教えて下さった。山下の近くにあることから、昔あったという城と何か関係があるのかもしれない。

 

山崎さんは、私たちが訪問する前に、予め八ケ村について丁寧な字で紙に書いて下さっていた。少しはにかんだ表情で話して下さったのが印象的だった。また太古の戦争の話をおもしろそうにしていた。

 

☆旱魅について

7年の前の大早越の時について聞いてみたところ、山崎さんは「あったかねえ〜。被害はなかったごた〜。」と言っていたのに驚いた。しかし、旱越は今までに34回あったらしく、その時は上の方の水田から順番に水を入れていっていたそうだ。さらに驚いたことに、山崎さんは「早越のときの方が米のよけいとれたもんねえ。米は水のありすぎん方がよかー。」と、たんたんと言われた。

雨乞いは、高さ800メートルの山(多良嶽)に多良町(ママ:太良町ヵ)の住民が何千人と登って、多良嶽神社で神主とともにお祈りをしていた。お祈りをしたら、本当に雨が降ってきたと、当たり前のように言っていた。

 

・農作業

☆虫除け

田んぼに石油をまいて、足で水を蹴り、水の勢いで虫を落として石油で殺していた。

☆虫追い

年に一何、松明をたいて田んぼの中を走り回って虫をおびき出していた。そのあと海まで行列を作っていき、海に松明を投げ捨てた。それで効果はありましたか? と聞くと、「知らん! 昔は野蛮な事ばしよった〜。」と言われた。()

☆牛馬耕

農作業は、牛と馬を使っていた。ほとんどが牛だった。したがって馬洗い場ではなく、牛洗い場があり、それは現在はもう存在しない南陽川(ナンヨウガワ)にあった。

また、博労はいたかどうか、半信半疑で聞いてみると、「おった。よ〜だまされよったー。と、笑いながら答えて下さった。やはり口がうまい人が多かったらしい。

☆肥料

化学肥料ができる前は硫安、カリン酸石灰、カリ、潟などを使っていた。良い田では、9俵、悪い田では7俵の収穫があったという。

☆ゆい

農作業の共同作業のことを『ゆい』というのですか? と聞いたところ、「いや、ゆいとは言いよらんやったー。なあんて言いよったかねえ……。」と、ちょっと考えてから、「あ、『いい』ていいよったごた。」と教えて下さった。共同作業で近所の人に手伝ってもらっても、特別にお礼はしていなかったらしい。お互いに手伝いあうことでお礼のかわりとしていた。

☆圃場整備

田んぼの圃場整備は昭和58年から平成4年にかけて3回程あった。今では全ての田んぼが圃場整備されている。しかし、減反政策によって、34%の田んぼが使えなくなった。そこで、川原ではビニールハウスを使っていちご作りが行われている。(6月まで)

 

・水路

 <多良川>の写真(原本は佐賀県立図書館所蔵)

 川原地区の南側は多良川上流の一ノ瀬橋から水を引き、南部水路(一ノ瀬水路)を使い、北側は川原橋(カワラバシ)から引いて街瀬水路(マッジェスイロ)を使っている。

 <川原橋>の写真

☆カタフチ

 多良川の下川原にある淵の名前。ここに大きな石があり、雷石(ドロガミイシ)と呼ばれていた。その由来は、石の下に隠れて上から砂をかけ、「雨が降ったー。」葉っぱを投げて、「雷が光ったー。」と言って遊んでいたことによる。山崎さんは懐かしそうに語ってくれた。また、昔は水車があったところを車渕(クルマブチ)という。

 

多良川の流れは昔のままであり、水もとてもきれいだった。今も昔も川は子供たちの遊び場のようだ。山崎さんも子供の頃は、よく川で魚をとって遊んだらしい。

 <水田>の写真

 <ビニールハウスのいちご>の写真

 <天満宮>の写真

・祭り

☆千灯篭祭り

715日に天満宮で行われる。中学生以下の子供が参加して、写真にある土俵で相撲大会がある。本来は、竹の柱に綱を掛け、その綱にたくさんの灯篭を吊すすのだが、近年子供の数が減ったため祭りは行われていない。今年も行われるかどうか分からないと言っていた。

☆多良嶽神桂祭り

9月第2土日に多良嶽神社で行われる。多良嶽神社は、元は多良岳にあったものを多良川河口の現在の位置に移転した、祭りの日には、子供から大人まで一緒になって浮立(フリュウ)という獅子舞のようなものを楽しむ。また、「大江山鬼人退治」、「志賀団七」、「羅生門」、「船弁慶」の4つの狂言を、県の要請で演じることもある。

狂言は県の無形文化財に指定されており、演じるときは補助金がでるそうだ。これらは、大昔は庭先で行われていたという。山崎さんの家の中には、浮立と狂言を演じたときの写真が56枚飾られていた。それを指差しながら、得意そうに話して下さったので、祭りをとても楽しんでおられる事が充分に分かった。

 

質問が終わり、私たちが色々な写真を撮ろうとしてうろうろしていたら、山崎さんの奥さんが、「もう帰るとね。じゃあ、バレイショば持って帰らんね。」と言って、大きなじゃがいもを掘って下さった。ミニトマトもたくさん持たせて頂き、私たちは両手に嬉しい荷物を抱えて帰路についた。山崎さんご夫婦には.貴重なお話のうえにお土産まで頂いて、本

当に感謝しております。ありがとうございました。

 



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