多良町喰場区 

 

1LA01045 織田慎太郎

1LA01049 柿原達哉

 

 我々が向ったのは佐賀県は太良町喰場区。海と山とに囲まれた小さな村である。六本松からバスで二時間、九時に出発し着いたのは十一時過ぎ。我々は他の学生たちが次々と降車して行く中、かなり最後までバスに乗っていた。やっと到着しバスから降りた我々は愕然とした。降車場所は目的地喰場まで6,7キロメートルはある場所であったのだ。同じく目的地までの道程の遠い端月区に向う学生達と共に、私達は急な勾配のついた山道を炎天下の中歩き始めた。すれ違う郵便配達員の方にどの位の道程かを尋ねると「バイクで十分くらい」との返事。信号もなく、車も余り通らない道である、その郵便配達員の方はかなりの高速でバイクを駆って去って行った。彼のバイクは時速六十キロは軽く出ていた。「時速六十キロで十分って六キロじゃん」などと考えながら歩き続ける。照りつける太陽、木々を揺らす風。草の匂いと虫の鳴き声。まさに歩き、見、触れる小旅行といった風情である。途中の分かれ道で、端月調査の組と分かれた我々はそこからさらに山道を登っていった。暑い、とにかく暑い。最初は楽しんでいた自然にも気を配る余裕など最早ない。かなり本気でヒッチハイクも考えたが実行には移していない。コンビニも自動販売機も無い。時折通る車からは「なんでこの人達こんなとこ歩いてるの?」といった視線を痛いくらい感じる。無言で歩く調査班。「歩き、歩き、歩く歴史学」などとゆう下らない事が脳裏に去来する。そして歩き始めて一時間半くらい後、ついに喰場に到着した。

 

 目的地である喰場に到着した時には既に正午を回っていた。四時には最初の集合場所に戻らなければならない。帰りにも同程度の時間(一時間半弱)がかかる為遅くとも二時半には出発しなければならないと考えた私達。さあ、早速調査開始だ、と勢い込んでみたものの、、人が歩いていない。まるで真夏のような炎天下、好んで散歩に出かける奇特な人はそうはいない。たまに見かけることがあってもお仕事中の人ばかり。声をかけるのも憚られる。そうこうするうちに、お庭で洗濯物を干しておられるご年配の女性が目に付いた。「こんにちは、暑いですね」等の挨拶を交わす。この辺り(喰場地区)を我々のような若い人間が訪れるのは珍しいことと言われながら、笑顔で挨拶を返してくださった。我々の目的を告げるとしばし考え込んだ後に喰場の歴史に詳しい方の存在を我々に教えて下さった。しかし丁度その方は市街地の方にお出かけになって不在であるらしかった。礼を述べて立ち去ろうとする我々に「暑いでしょう、(詳しい人が)帰ってくるまでお茶でも飲んで行きなさい」と。道中で飲み物も底をついていた我々はそのお言葉に甘えさせて頂くことにした。高校三年生のお孫さんがいらっしゃるそうで、年齢の近い私達がお孫さんにダブったのではないだろうか。しこ名について尋ねると「自分は余り詳しくない。この辺りの女達は皆そうゆうことはよく分からない」とのこと。ご主人が詳しかったらしいが、残念ながら既に他界しておられたため、お話を伺う事は出来なかった。その後、娘さん(義娘さん、お子さんのお嫁さんである)が帰ってこられたため改めて名乗り、同様の質問をしたがこちらの方は竹崎の方からお嫁にいらしたらしく詳細なお話は伺えなかった。さてそうこうするうちにお近くにお住まいの喰場の歴史に詳しい方が帰って来られたと聞き、お礼をしてお暇しようとするとお婆さんは私達を送ってくださり、その方(喰場区の区長さん)に紹介してくださった。今回このレポートがまとまったのはまったくこの方のおかげであると言っても過言ではない(お名前を伺うのを失念した事が悔やまれる)。

 

 さて紹介して頂いたのは田口さん。喰場の区長をしておられる方である。顔馴染みのお婆さんの声にごく砕けた格好で玄関に出てこられたが見慣れない私達が居た事で少し驚かれたようだった。しかし我々が九州大学から地名の調査に来たことを告げると快く聞き取り調査に協力を約束してくださった。ここでも先程のお婆さんが「遠路はるばるやって来た子達だから、よろしく頼まれてやってね」とゆうような口添えをして下さった。

 

 お婆さんと別れ、区長さんのお宅にお邪魔させていただいた我々はまず改めて名乗り、調査の目的を告げた。すると出身を聞かれるので二人とも答えると同行した柿原が東京出身であることに驚かれていた(田舎者の私は「日本人は十人に一人以上の確率で東京人なのだ」などと余り意味の無いことを徒然に考えていたがそれはどうでもよい只の僻みだ)。さて、まず一番に伺ったのは「しこ名」。地図を示し、しこ名について尋ねると一瞬困ったような顔をされた。教授の話にあった「しこ名なんて無い」とゆう反応か、と内心ドキリとしたが「村の中だけで使われる呼び名のようなものはありませんか?」と尋ねると思いついたように話始めて下さった。

 

 端月区との境界の辺りには「ササンカクラ」という名の道がある。田口さんは「恐らく『笹ヶ倉』とゆう字を当てるのだろう。」と言われていた。名前の由来を尋ねてみたが田口さんにも分からないらしく「道の周りに笹が生えていたのかな」等と考えてみた。

 田としては名前が付いているのは「ハットウマキ」というものがある。「八等巻」と当てるらしい。これは昔稲の種を蒔く時に「八等」を蒔いたからだとゆう。パソコンで変換して初めて気付いたのだが漢字として正しい「ハットウマキ」は「八等蒔」ではなかろうか?しかし地元に伝わる漢字は「八等巻」である。「八等を蒔いたから」とゆう他にも何か名前のイワレがあるのかも知れない。

 山の中とゆう事で「坂」についてのしこ名も採取した。「キュウハチザカ」と「ウーサカ」である。それぞれ「九八坂」、「大阪」という字を当てる。「キュウハチザカ」には「急八坂」とする説もあるそうで、それはこの坂がとても急だから、とゆう至極納得のし易い理由からきたネーミングである。となると「ウーサカ」の方も大きな坂だから、と考えるのは自然なことで、事実「ウーサカ」の由来はそれであるらしい。教授より事前に受け取ったマニュアルに記されていた「佐賀の方言でオ音はウ音に変換される」というものであろう。「オーサカ」⇒「ウーサカ」である。

 さらには「谷」。「シシオイコミ」と呼ばれる谷だ。当てられる漢字は「猪追い込み」。これは昔、喰場に猪がたくさん生息していた時代にこの谷に猪を追い込んで猟をしたことに由来する。「シシオイコミ」は非常に狭い谷であり喰場の南西方面から猪を追い込み、北東の出口(「ハットウマキ」の辺りである)に至るまでに挟み撃ちのようにして狩ったらしい。

 また山にも名前がついていた。北から北西にかけてを「シシオイコミ」に、南東を「キュウハチサカ」に囲まれた山を「マルオヤマ」と呼ぶ。「丸尾山」と漢字を当てるらしい。これもまた山の形がそうなって(丸くなって)いるから、という理由で付けられている。

 次に水利について述べる。村の最北端、公的には「喰場池」と呼ばれる溜め池は「ヒヨコバノツツミ」とゆうしこ名を持つ。「ヒヨコ場の堤」と当てるが「ヒヨコバ」の意味は分からないらしい。大正期に作られた溜め池であるが、最近改修工事が行われたためコンクリートで打たれた広大な溜池となっていた。地図からも分かるように喰場には川がない。故に昔から溜池をつくることは必須条件であった。大雨が降った時に山の上流から流れてくる雨水を一気に溜めて、溜池を一杯にしてしまうのだ。これを「悪水利用」という。農業用水としても生活用水としても「ヒヨコバノツツミ」はまさに生命線でありこの溜池の水を使い切り、枯らしてしまう事は決してあってはならない。それは喰場に川が無いという大前提にも起因する。この溜池の水を使い切ってしまうと火事になった時、被害を食い止めることが出来ないのだ。故に旱魃の折に例え稲が枯れてしまったとしても火事に備えて水を枯らすことはない。

 続いて喰場の慣行についての聞き取り調査を行った。年に二回、春と秋にそれぞれ「春祭り」「秋祭り」を行う。秋祭りはみかんの収穫が終わってから行われているがそれはみかんを作る農家が増えたからで、以前は秋祭りはもっと早い時期に行われていたという。春祭りは田植えが終わってから行われる。その田植えにおいても様々な慣行が残っている。田植え前には「チャマエシキリ」という慣わしがあった。現代においては様々な耕作機械が用いられ、農作業の効率は以前とは比べ物にならないくらいに良くなった。しかしそういった機械の導入される以前、人間の手作業と牛馬などの家畜とによって全てが行われていた頃は田植えというのは凄まじい重労働であった。だから、その重労働を乗り切るために田植えを行う前に人間家畜ともに二、三日の休養をとらなければならなかった。その静養期間のことを「チャマエシキリ」と呼ぶのだ。また前述したように田植えは重労働であるので体に疲労が溜まる。その後の生活に支障をきたさない様に「チャマエシキリ」の様に静養期間を取る必要があった。これを「ツクリアガリ」と呼ぶ。漢字は「作り上がり」と当てるらしい。このエピソードだけでいかに昔の農作業が大変だったか偲ばれるというものだ。なおこの「チャマエシキリ」「ツクリアガリ」はもう行われていない。また田植えが終了した後、「タキトウ」なる儀式が行われる。漢字に直すと「田祈祷」。田の豊作を祈る神事であり、この儀式は今も行われている。いかに技術が進歩しようとも米作りやみかん作り、その他農作業の根源にはこういった信仰心が不可欠なのではないだろうか。

 電気、水道についても尋ねた。喰場に電気が引かれたのはとても遅く、終戦後の昭和27,28年くらいのことだったという。それまでは当然証明となるものはランプくらいであった。水道が引かれたのも非常に遅く17年前。それまでは井戸を掘ったりしてまかなっていた。

 なお「コガクラ」という場所がある。しこ名かとも思ったが趣が違うので別に記す。昔から人の余り住んでいない山奥であったが、終戦後に朝鮮半島からの引き揚げ者が何戸か入植した。しかし一戸、また一戸と他所へ移り住みいまでは養鶏を行う一戸があるのみであり、喰場の人もあまり近寄らない。

 さらに「喰場」の名前の由来についても伺った。「喰場」とはすなわち「食う場所」である。江戸時代の参勤交代の折に大名の行列が立ち寄り食事を摂った場所が喰場の始まりではないか、と言われている。これを裏付ける物になるか分からないが喰場の墓地には元禄十四年に没した人の墓がある。

 色々なお話を伺ううちに予定時刻がやってきてしまった。懇切丁寧に喰場についてご教授下さった田口さんにはこの場を借りて改めて御礼をしたい。