現地調査レポ-ト

植田 美穂
大山 智美

日時:平成10年(1998年)7月5日

調査地:佐賀県伊万里市黒川町畑川内


<佐賀県の現況>

面積:2431.68km
人口:865603人 (男410977人・女454626人) (昭和55年現在)
県内市町村数:7市36町6村
県名の由来:「肥前国風土記」に日本武尊が巡幸の際,樟の茂り栄えていたのを見て, 「此の国は栄の国と謂うべし」と名づけた伝説,また賢女の伝説などから 佐嘉郡の郡名が生まれ,のち佐嘉・佐賀と書いたが,明治3年佐賀に統一 され県名となる。

佐賀県は,文化的特徴を考える場合,地形的・歴史的な風土性から唐津地区と佐賀地区とに 大きく分けることができるといわれる。今度の調査においても,その特徴は少なからず影 響するものと思われる。以下は,事前準備の段階で調べたことをまとめた。

<唐津地区>
伊万里地方を含む。
唐津藩がおかれていたが,譜代大名の交替により,武士階級の在地性が弱かった。逆に 松浦党の伝統をひき,漁民・町人・農民などの庶民意識が強い地方である。祭りがそ の例であり,唐津の「唐津くんち(供日)」・「唐津山笠」(曳山), 伊万里の「伊万里供 日」(トンテントン祭)などは民衆意識の高揚を示すものと言える。

<佐賀地区>
武雄・鹿島地方を含む。
佐賀藩がおかれていたが,唐津藩とは異なり,外様大名鍋島氏の移動がなかったこと で古くから官尊民卑的な傾向が強い。農業地域であることも一因すると考えられる。 「唐津ン子と佐賀ン者」

<伊万里市現況>
面積:254.56km
人口:6万913人 (昭和50年現在)
市内町・大字数:10町74大字
<黒川町畑川内現況>
人口:321 世帯:66

<伊万里市について>
[原始] 先土器時代の遺跡が見つかっており,早くから人が住んでいたようである。 伊万里市の腰岳は黒曜石の産地として知られる。縄文・弥生時代と続き,古 墳時代には全長80mの前方後円墳(二里町川東),同じく全長40mの前方後円墳 (山代町波瀬),その他円墳,巨大な箱式石棺墓が築造され,この地方に有力な 在地土豪がいたことが分かる。またこれらの分布地から古墳時代のこの市域 の中心地は伊万里であったと言える。
[古代] この市域は古代松浦郡に属していた。古代の松浦郡域は広大であったことか ら(律令時代に最大の郡域をもっていたとされる。),人口の少ない郡であっ たと思われる。また市名の由来は古代の条里名に由来するといわれる。

<荘園について>
この市域は文献より,平安末期頃東・北・南は松浦荘域,西は宇野御厨荘 域になっていたようである。松浦荘については,もと筑後守国兼法師の所 領でその子国通,国通の娘大江氏が伝領し,さらに平政子に譲られ,建春門 院に寄進,その没後は最勝光院領となった。

<松浦党について>
松浦党の活躍が見られるのは,寛仁3年(1019年)の刀伊の入寇のころから。 家伝によると,延久元年(1069年)に源融の7世孫,源久が松浦郡御厨に入 部し,姓を松浦と改め松浦党の祖となったという。久の7人の子供が松浦 地方に分散し,それぞれの地を分割支配したらしい。東・西松浦郡地方 (佐賀県)のものを上松浦党,北・南松浦郡地方(長崎県)のものを下松浦党 と称した。上松浦党には石志・佐志・波多・有浦・値賀・鶴田・相知の 諸氏があり,それぞれ現在の地名として残っている。

[中世] 松浦党は平氏政権に与していたが,次第に源氏に接近し鎌倉幕府の御家人とな っていった。元寇の際には奮戦したことが文書に記されている。南北朝の内 乱では松浦党は分裂して争うことになった。大半が北朝方についたが,一部南 朝方についた者があったようである。戦国期になると竜造寺氏が急速に興隆 し,伊万里地方を支配下におき松浦党を服属させた。竜造寺氏衰退後は,跡をつ いだ鍋島氏が支配した。

[近世] 江戸期は複雑な行政区画に分かれ,佐賀藩領,蓮池藩領,小城藩領,唐津藩領 (のち一部幕府領)などになっていた。

<佐賀鍋島藩について>
佐賀藩には3つの支藩があった。

本家
初代 勝茂
鹿島
勝茂の弟 忠茂より (その後忠茂の子正茂のとき一時没収。勝茂の 五男で正茂の養子直朝が相続。)
小城
勝茂の長男 元茂より (長男だが生母の身分が低く,勝茂と高源院:徳 川家康の養女との間に次男忠直が生まれたた め,祖父直茂の隠居分を引き継いで分家。)
蓮池
勝茂の三男 直澄より

<唐津藩について>
寺沢氏の後は,大久保氏,松平氏,土井氏,水野氏,小笠原氏と譜代大名の交替 が相次いだ。

<肥前陶磁器について>
有田焼は,朝鮮出兵のとき鍋島直茂が陶工を連れてきたのに始まる。李参平 が有田郷の泉山で白磁鉱を発見し,酒井田柿右衛門が赤絵付に成功して発 展させた。禁裏や将軍家などへ贈られたほか,一部専売品となった。また, 伊万里津より長崎の出島を通じて海外へも輸出されたので,伊万里焼の名 称も広まった。唐津焼は,室町期より岸岳城一帯で焼かれていた岸岳系古 唐津に由来するといわれる。

[近現代] 明治後もしばらくは複数の県に所属し,明治16年より佐賀県に所属した。 また,1町11村が存在していたが,昭和29年に現行の伊万里市が成立した。 伊万里地方においては明治より石炭採掘が行われ,米とともに佐賀県の産 業の二大柱であったが,昭和37年頃から炭坑の閉山が相次ぎ人口の流出が 続いた。このため,産炭地振興によって企業を誘致し工業団地が造成され た。

市のおおまかな沿革をみてきたが,次に民間信仰について今回の調査に関わってきそうな ものを挙げてみた。

キシダケサマ(岸岳様)信仰
小さな石製五輪塔や宝篋印塔などが各地に点在する。これは,文禄・慶長の役で秀吉の勘 気に触れて取り潰され無念の涙をのんだ,岸岳城城主波多三河守一族郎党の墓といわれ る。石塔類を粗末に扱うと原因不明の高熱に悩まされ,祈祷師に頼らぬと祓うことができ ないという。

モッコ踊り
黒川町塩屋の竜神社で旧暦7月14日(現在8月14日)に奉納される。神官を中心に立て て,モッコに入れた土を投げ込むような所作を繰り返し歌いながら踊る。由来によれば干 拓工事のために人柱にたたされた人の霊を慰めるためといい,もとは大庄屋を中心に立て ていたという。

地蔵さんの市
   伊万里市周辺では,あちこちに祀られる観音様や地蔵様に,それぞれ日を定めて市が催さ れる。

以上で事前準備で調べたことのまとめを終わる。

現地調査

<話者> 前田 徳市 (大正7年)
梶原 菊男 (大正7年)
柳本 常尚 (大正13年)
補助・坂本 勝利 <区長・生産組合長>
<畑川内の通称地名>
田・畑
アリムタ (荒牟田の音変化か。小字:荒牟田にある。小字の由来だろ うか。)

ウサギダ (うさぎ田。小字:酉田・菖蒲谷にある。「黒川町史」では ウソノキダキとなっているが間違いらしい。うさぎ田は, 昔,うさぎが畑を荒らしていたことからついたそうだ。) カミヤンタニ (神山谷。小字:片田原のところらしいが,神ノ前に入る のではという気もする。)

クラタニ (倉谷。小字:倉谷にある。小字の由来か。谷をいうのか,そ の辺一帯をいうのかは不明。伊万里市環境センターより下 (南のことか)ということだから,図が少しずれて南波多町 境の谷沿いの棚田をいうのかもしれない。)

コシコバ (小字:三本木のところにあるのだが,三本木溜池の下という から図がずれて,三本木溜池のそばの田んぼではないかと 思う。)

コブイシ (疣石。小字:大谷のところになっているが,小字:疣石のと ころだと思われる。小字の由来だろう。大昔,火山があり, そのときの溶岩の塊がこぶのように見えるのでこの名がつ いたという。)

シイモモ (小字:古道にある。)

ショウヤヤシキ (庄屋屋敷。小字:持丸田にある。江戸期,大庄屋の屋 敷があったことからついた。)

ダァラ (たいら。平地のこと。小字:持丸田・原田あたりに広がる,畑 川内地区で一番広い平地の田んぼをいうようである。)

タカノス (鷹ノ巣。小字:鷹ノ巣の由来だろう。図の鷹ノ巣の位置は 小字:下り松・山中になっているが,小字:鷹ノ巣のところ にあると思われる。)

ドーキュ (道急。小字:楠木田にある。花房・南波多へ抜け る古道があったことからついた。)

ナガサコ (小字:古道にある。「黒川町史」ではフカサコとなってい るらしい。)

フヂンダニ (ふぢん谷。小字:畑ヶ田のところだが,近くに谷も無いの で場所が間違っているのだろうか。由来不明。)

ヘゴノ (小字:三本木にある。坂本さんの果樹園一帯。)

ミズナシゴウラ (水無こうら。もともとは「こうら」だったのが,ご うらと濁音化したらしい。小字:広川原のところに ある。名前のとおり水が少なかったそうだ。)


イリフネヤマ (入船山。小字:持丸田にある。庄屋屋敷のそばににあり, その辺一帯が小高いのでそう呼んだのだろうか。)

オオヒラヤマ (大平山。立目地区に一ノ太平という小字があるので,畑川 内と立目の境付近の山か。)

キャーガミネ (貝ヶ峰。山頂に巨大な松があり,遠くからでも見ることが できたが枯れてしまったそうだ。現在は九州電力の鉄塔 が立っている。)

デフネヤマ (出船山。宝島ともいう。小字:神ノ前にあり,八坂神社一帯 の小高いところをいう。入船山と対で名前がついているら しく,山を港からの出入りの船にみたてて呼んでいたらし い。)

マルヤマ (丸山。小字:楠木田に昔あったそうだ。現在は田んぼになって いる。)


ウータニ (大谷。小字:大谷のところにある。谷の下あたりに,現在,砂防 ダムがある。)

ヒコジュ (小字:三嶋のところにある。語源不明だが,谷のことをいうら しい。)

ヤナギンタニ (やなぎん谷。小字:楠木田にある。図は尾根のあたりにな っているが,そのすぐ横の谷と棚田一帯のことだろか。)

川・池・湧水
アシガライケ (足柄池。立目地区にもまたがる小字:足柄にある。この付 近一帯を潤している重要な溜池。昭和に入ってから造ら れた。地図では三本木溜池を足柄池と,足柄池を大平池と それぞれを誤ってしるしてあった。)   

カジゴヤ (鍛冶小屋。小字:下り松にある。湧き水が出る。波多津の方か ら出張農鍛冶屋が来ていたそうだ。)

カモイイケ (鴨居池。小字:楠ノ元にある。江戸期に唐津の殿様が造らせ たらしい。)

ショウヤガワ (庄屋川。小字:持丸田にある。湧き水が出る。地図では庄 屋屋敷のそばに水路が記してあったのでそれだろうか。)

古道
ドーキュ (道急。小字:楠木田にあった花房へ行く近道。地図に林道が記 してあったのでそれだろうか。)

フルミチ (古道。小字:古道の由来にもなっていると思われる古道で,地図 の主要地方道伊万里畑川内厳木線をだいたいかたどっている という。波多津の方へ行く道だったということだ。)

また,三本木溜池の近くの細い道や現在一級市道になっている道が昔から 伊万里へと続いていたそうだ。

屋号
カンノンヂャヤ (観音茶屋。小字:神ノ前にある。観音様祭の際,店を出し ていたことからついたそうだ。観音堂のそばの家の屋号 と思われるが,その辺一帯をいうようだ。)

クルマヤ (車屋。坂本さん宅。小字:楠木田のにある。昔,家に水車小屋が あって素麺を作っていたことからついたということだ。)

サガリ (梶原さん宅。小字:向田にある。畑川内で一番低いところにあった からついたらしい。)

ヒワレ (小字:下り松のところか。)

フルミチ (古道。前田さん宅。小字:古道にある。古道の近くにあったから か。)

ワサダ (小字:酉田のところにある。)

その他の地名
オガミマツ (拝み松。小字:黒川にある。昔,唐津の殿様が拝み松のところ で日の出を拝み,大黒川地区にある日の出松のところで日の 出を見たことによるという。当時,海岸線はもっと伊万里の 奥の方まで入りくんでいたらしい。その海岸をせっきるた め(干拓か。)人柱を立てたときの話だという。黒塩のモッ コ踊りにも人柱が絡むので関連があるのかもしれない。)

カンソウゴヤ (乾燥小屋。小字:上向田にある。昔,ここに楠立村(楠立が 畑川内から独立していたときもあったらしい。)の神社が あり,他の神社・祠が八坂神社に合祀された際,同様に合 祀したそうだ。その拝殿を利用して和紙を乾燥していた そうだ。)

ジゾウ (地蔵。小字:楠ノ元にあり,鴨居池のそばにある。)

ハカ (墓。小字:楠ノ元にあり,鴨居池のそば。圃場整備(基盤整備)のと            きあちこちにあった古墓を合祀したそうだ。このとき,反対も出た そうだ。これらの古墓は,岸岳城城主:波多三河守の残党の墓とい う。畑川内には左げん太夫の墓もあるという。ちなみに畑川内に は波多姓の家はないという。南波多に多いそうだ。)

マスイワ (桝岩。小字:桝岩の尾根にあるという一升枡の形をした岩。小 字の由来と思われる。)

ワクドイワ (わくど岩。小字:古道の山中にある。「わくど」は方言でガ               マのこと。ガマが座ったような形の岩をそう呼んでいるそ うだ。)

その他,場所不明の通称地名を以下に記した。

アズキコバ(あずきこば), カンネモト(かんねもと),コモリイワ(子守岩), コーゲダケ(こーげ岳),ジュウジボ(じゅうじぼ),ハチノクボ(はちのく ぼ),ヤマガシラ(山がしら) 以上「黒川町史」より

<畑川内の水利>
畑川内はもともと水が得にくい土地であった。個人で水を引いて農業をしていたが,そ れでは不公平なので共同の水路を造り,明治時代に水番制をしいた。畑川内の大きな溜 池は江戸から明治時代にかけて造られたそうだが,それでも水不足が絶えず干ばつが ひどかったため,前田さんや梶原さんが18才の頃新しい溜池:足柄池を造ったそうだ。 昭和に入ってからのことである。溜池造りの指導者は黒塩地区出身の近藤校長先生で, その孫は今は退職してあるが農林部長を務めていたらしい。この溜池のおかげで長尾 や真手野など広い地域まで潤ったのだそうだ。梶原さんの思い出話によると,溜池造り の道具などの運搬用のトロッコのレールをしくため,レール(約4m)を担いで運び賃金5 円をもらったのだとか。また,村間の水争いはあったのかと尋ねたが,「そんなものはな かった。」とのことだった。昭和28年の水害(28水)ではこの辺一帯は水浸しになった そうだ。平成6年の水不足のときは足柄池のおかげで農業用水は確保できたが,飲み水 に困り,井戸を持たない人は湧き水を汲んだり,清水地区に湧き水をもらいに行ったり したそうだ。

<畑川内の農業>
昔は米作りの副業は紙漉きで京花紙(芸者さんが持つ紙)や障子紙を作っていた。前田 さんが青年部にいた頃,西瓜栽培を始め畑川内西瓜として有名になった。これが伊万里 西瓜の発祥である。その後,馬鈴薯栽培もし,西瓜をやめて蜜柑とお茶にきりかえた。 現在は,蜜柑(畑川内の果樹園は蜜柑畑である。)とお茶そしてビニールハウスで胡瓜を 作っている。また,他の農村同様,後継者不足に苦しみ,ほとんどの家が兼業農家である。

農休日制度について
前田さんが区長を務めていた昭和42年につくられたもので,第1日曜日には農業を してはならないという制度。なんと働いたら罰金を取るというユニーク名ものであ る。本来,農家には休みなどないのだが,「これからは百姓も休まにゃいかん。」(前 田さん談)ということで設けられた。私達が調査に出かけた7月5日はちょうど農休 にあたっていたため,道を歩いていても働いている人を一人も見かけなかった。な お,現在は罰金を徴収することはないそうだが,働くと「あそこは精がでよる。」と 皮肉を言われるため,ちゃんと休むそうだ。(しかし,真手野ではまだ罰金を取るらし い。)

<畑川内の祭>
・お伊勢講 (正月・5月・9月)
江戸時代,伊勢参拝を望む村人達がみんなでお金を出し合って筏を造り,唐津から 代表者を伊勢に送り出していたことから今に残っている祭。現在は正月・5月・ 9月にのぼりを立ててお参りをするだけになっている。このお伊勢講は,そのうち 東西に分かれて行うようになったらしい。東とは酉田から東側でやはりみんなで 行っていたそうだ。西とは片田原から西側で組ごとに別々に行うようになったそ うだ。(組とは江戸期の地縁的社会結合の単位で,ここでは唐津藩が決めた広大な 行政単位の組ではなく,近所内などの最小単位を指すらしい。)

・貝ヶ峰の祠
貝ヶ峰の山頂にあった祠。他の神社や祠同様,八坂神社に合祀された。昔は,年に 2回村中みんなでカネをたたいてお参りをしていたそうだ。

・鴨居池の地蔵祭 (8月24日)
水難に遭わないように祈願する祭。八坂神社などの祭が中止されるなか,いまも行 なわれている。

・出船山の観音祭 (8月4日)
八坂神社のそばの観音堂で行なわれる祭。伊万里市周辺で広くみられる祭のよ うだ。

・八坂神社のくんち(供日) (8月14日)
親戚やおつきあいしている人を招いて,料理や酒をふるまう。カネをたたき風流 節を踊っていたが,後継者がいないので現在はやっていない。圃場整備(基盤整備) のため資金不足で申し合わせをして中止していたが,今年復活する予定。

<その他>
・大庄屋について
唐津藩では大・小庄屋は転勤制で任期は10年だった。畑川内は唐津藩領だった ので同様に「替わり庄屋」だったろうと思われる。庄屋屋敷という地名に関係 する大庄屋のことについて尋ねたら,「大庄屋さんの子孫は明治の頃にはもう佐 賀におらっしゃった。最近,唐津におらっしゃるらしい。畑川内の納骨堂に加入 されとったが,もうやめとらっしゃる。」とのことだった。この大庄屋の子孫と は畑川内に最後に赴任してきた大庄屋の子孫のことだろうか。畑川内の大庄屋 は,現在の波多津町あたりまでのかなり広い範囲を含む唐津藩の農村支配区画: 畑川内組を治め,組内の小庄屋をまとめていたという。ちなみに,畑川内村は組 元村だった。また,村の文書から「峯 庄左衛門」という大庄屋がいたことが分 かった。大庄屋の後に庄屋屋敷には「田崎」という小庄屋が入ってきたそうだ。 この子孫も今は畑川内におらず,唐津にいるそうだ。納骨堂には加入しているら しい。

・地滑りについて
28水や地滑りの危険から,「車屋」と言われた坂本さんの家は北に移動し現在地 になったそうだ。地滑りがあったのかと尋ねたら,実際あったわけではなく危険に なったから移動したのだそうだ。ボーリング調査をしたら,花房のあたりが地滑り して古屋敷池が埋まる危険がでてきたからその付近一帯の家が移動した。しかし ボーリングの後は危険はおさまったのだそうだ。

・組について
昔,畑川内村の内部はもっと小さな近所単位の組に分かれていたそうだ。6つの 組に分かれており,上組,下組,向田組,酉田組,片田原組,楠立組となっていた。 今もこの部落名は使われており,区の出席確認のときには上組から始まり最後は 楠立組という順番だそうだ。

以上で現地調査の報告を終わる。

私見・感想
今回の調査は,私達にとって大学に入って初めての「専門的かつ科学的な勉強」 だった。(人の話を聞いてくるので「人間の記憶」という主観性の強いものに依存 した調査だが,文献だけで終わらせないという点ではより「科学的」であったかも しれない。ただ効率的かどうかについては,準備段階(特に地図の作成)と整理段階 (不慣れな人間がパソコンを使ってレポートを作成する)において異常に時間がかか り大変な思いをしたが。)史学を志す私(大山)にとってはさまざまな面でかなり勉 強になった調査だった。相棒(植田)にとっても何か学んだことはあったと思う。実 際現地へ行ってみて,区長の坂本さんをはじめ皆さんが暑いなか快く調査に応じて 下さり,親切にして下さったことに深く感謝するとともに,歴史はひとの協力無しに 一人で学べるものではないことを痛感した。
さて,現地に着いてあまりにひとけがなかったので恐ろしく過疎化の進んだ村だ なと思っていたら,なんとその日は農休日だった。私は農休日制度など初耳で驚い たが(両方の祖父母とも農家だがそんな制度はない。),実家が農家の友人に話した ところ「田主丸ではそんなの昔からある。」と言われた。地域差だろうか。 調査は公民館で行なわれた。事前に連絡していたところ,区長の坂本さんが「自 分はあまり詳しくないから。」と長老の方を紹介するから公民館に来るよう電話を 下さったからだった。しかし,着いたときには区長さんしかいなかった。その日,伊 万里市の市史編纂室の民族調査も重なっていて,長老方が勘違いして午後に来れば いいと思われていたのだ。(実は,午前が私達の調査で午後が市の調査だった。)区 長さんの電話でまず元区長の前田さんが来て下さった。
前田さんに言わせると,「自分達が昔のことを知る最後の世代。別に昔のことな ど知ろうとも思わんから後の世代は知らん。」だそうだ。確かに,50才前半ぐらい に見え若手のなかに入る区長さんでは,知らないことが多かった。(でも地図を一番 理解して下さったのは区長さんだったし,ともすれば回想にふけり質問に答えるの を忘れがちな長老方と私達の間に立って話を進めて下さったのも区長さんだった。 区長さんが同席されていなかったら,調査は進まなかっただろう。)
また,市史編纂室の福田さんが先に来ておられて,私達の調査の様子を見ておられ た。調査中,いろいろと補足をして下さった。
一応,聞いたことは残らずまとめ地図に記したのだが,教えてもらった場所が実際 とはずれている,誤っているというところがいくつかあるようだ。住宅地図はとも かく,普通改まって自分の住む地域の地図を見せられ,説明を要求されることなどま ったくない。多少のずれ・間違いは仕方ないだろう。
前田さんは穏やかな感じの方で話す口調も落ち着いていらっしゃった。その後, 田んぼのことは持ち主しか分からないということだったので,区長さんがもうひと かた呼んで下さった。梶原さんで血色のいいひたすら「元気」なおじいさんだっ た。梶原さんがいらっしゃって,調査に幅が出てきた。田んぼ以外に水利のことな どを聞いた。前田さんが話し,梶原さんが補足をするという感じで調査は進んだ。 (たまにすごく大きな声をあげて思い出にふけっておられたが。)梶原さんは地図に 関心のない方で,地図ではどこになるのかというのはもっぱら区長さんが教えて下 さった。(あるときなど,コーゲ岳はどこにあるのかと尋ねたら,「あっちじゃ。」 と彼方の方を指さされてしまい,非常に困った。結局,コーゲ岳は地図には記せなか った。)しかし,同い年のお二人が昔のことを話すのだから,当然思い出話に花が咲 くこともあった。足柄池を造ったときの話が一番懐かしかったようで二人で「あん とき(溜池造りのとき)お前おったと?」「おったと。」というような話もされてい た。
畑川内でも松浦党は無縁ではなかった。古墓の話から松浦党の諸氏の一流である 波多三河守の残党がいたことが推測されるからだ。しかし調査を通じて地元の「唐 津の殿様」に対する認識があいまいであることが分かってきた。波多氏は岸岳城の 殿様であって唐津藩の殿様ではないのだが,ごっちゃになっているようだ。調査の 中で「唐津の殿様」という言葉がよく出てきてが,いつのどの殿様なのかはっきり しなかった。
調査も終盤にさしかかって柳本さんがいらっしゃった。怒ったような口調の方で 田んぼの通称名を尋ねたが,「それは自分らでよかごつ呼びよっちゃろ。」と一蹴 されてしまった。しかし,小字の境界線を引くというめんどうな作業に最後まで付 き合って下さった。
午後の調査に備えてたくさんのお年寄りの方がいらっしゃた。私と柳本さんの 小字分けの作業中,相棒は「何のために調べよっとね。」と質問されていたようだ。 私だったらどう答えただろうか。何のために歴史を学んでいくのか,ただ好きだか らではない意義を私なりに見つけていきたい。