歴史と異文化理解A レポート
調査者 : 山本耕平 市本誠
調査地域 : 伊万里市瀬戸町 中通区
話者 : 石井昭吉さん 昭和10年生まれ
中島勘一郎さん 昭和21年生まれ
井手口弘さん 昭和7年生まれ(中通区長)
調査内容 : しこ名 田畑 : せとはま(瀬戸浜)
せとしんでん(瀬戸新田)
かわそいしんでん(川副新田)
はまんくり *このしこ名は本瀬戸区のもの
地名 : ちょうせんぼう(長仙坊)
しんでん(新田)
つじ(辻)
なかみち(中道)
あつかま(上浜)
しんはま(新浜)
しらはま(白浜)
*この地名は、中通区内の5から20の 民家を8グループ に分けて呼んでいる地名
場所 : とんごとう(屯衛島)
ぐそくいし
まきしまやま(牧島山)
しおがま(塩竃)
調査日 : 7月4日
午前11時に中通につく。早速手紙をだした区長のところへ電話しようとしたが、
事前に調べた住所と電話番号が違っていた。手紙も着いていなかった。調べなお
して電話したが、あいにく留守で、仕方なく近くの家を訪ねることになった。
まだ昼前だったので、皆作業に出ていて留守が多かった。そして最初に話を聞か
せてもらえたのが石井さんで、この人は昔郵便局で働いていて、今は何もしていな
いそうだった。早速話を聞いた。以下の通りである。
しこ名でいう辻に住んでいた石井さんは生まれも育ちもこの伊万里で頼りになる
方だった。水田の呼び名を教えてもらった。さいしょ<しこ名>と聞いてもわからな
かったが、話し出すと止まらない性格なのか、いろいろなことを教えてもらった。
堤 : この辺りは<ため池>のことを<堤>という。調査者の山本は長崎県出
身で、長崎の田舎でも堤と呼んでいたのですぐ分かった。この堤は谷の
部分に石が積み重ねられていて、そこに水が溜まるようになっていた。
その小さなダムのように作られている堤の側面には木のくいが打ち付けら
れてあり、このくいをはずすと水が流れていくというしくみだ。さらにそのくい
は水位にあわせて区分けされてあり、水量の調節もできるようになっていた。
この堤は5ヶ所あり、そのしこ名で使う堤を分けているそうだ。
#牧島山の堤−−−−−長仙坊の水田へ
#中通池(中道の堤という)−−−−−中道と海面、上浜の
水田へ
#はまんくりの北の堤−−−−−はまんくりへ
#はまんくりの東の堤−−−−−瀬戸浜へ
#新堤(瀬戸町で最大)−−−−−瀬戸新田、川副新田へ
堤のことに関連して、区の水利についてもたずねた。
[水利]
1、干ばつ、長雨による被害とその対策について
(1)干ばつ
確かに堤の水は少なくなるが、本来中通周辺は海であった地帯
は多く、その場所は今水田となっていて、比較的低地である。
そのため水は上流の地域と比べて心配もなく日照りや干ばつ
が続くと逆に豊作となる珍しい地域である。
実際ひどい干ばつが続くと、やはり水は少なくなるそうだ。
その場合は堤の水を小出しにして、後は中通内での地域どうし
話し合いで残りの水を供給しあうしかないそうだ。
(2)長雨
長雨が天敵となる地域とは、おもいもしなかった。台風が来たら
被害が出るのは当たり前だが、長雨の場合は0メートル地帯ゆえ水が流れなくなり、水田に水が溜まり、稲が腐ってしまう
事が多いらしい。海岸に面しているため、潮の満ちひきに応じて、水を外に排出する自然排水のやり方だけが稲を守る方法といっていた。しかしこの方法は、人為的なものではないため、
対策とはいえない、ともいっていた。
2。農地以外での水利
(1)飲料水において
昔−−−−−井戸水
現在−−−−−水道(昭和30年辺りから)
*井戸の後らしきものが長仙坊にあった。
(2)ポンプ
水害による床上床下浸水などの防止のために海岸線ぞいにポ
ンプを設置。このポンプを用いて排水する。農地に対してはポンプは使うことができないともいっていた。
偶然この石井さんは時間が空いていたらしく、そのおかげでこのような長話を聞くことができた。メモを取るのが大変で、テープレコ−ダーを持っていたら!とつくづく思った。話を聞きながら本瀬戸の方へ歩き、本瀬戸を調査しているメンバーと会った。そのまま堤の方へ。堤の説明を聞き、中道の方へ住んでいる中島さんと帰り道の中でお会いした。やはり狭い地域では皆交流が深いのだなあと思い、またこの時中島さんを紹介され、見せたい物があると紹介され、中道の方へ行くことになった。本当にいい人たちばかりで感激した。この時12時30分頃だった。
中島さんのお宅に古文書があるということでお邪魔することとなった。この古文書は江戸時代の物で読めなかったが、それについての内容を教えていただくこととなった。
中通とは
中通は、本来海だった地域を開拓してできた土地である。今の中通の道路は、昔堤防となっていたもので、時間を経て今の堤防ができあがったそうだ。最後の堤防を作ったんのが川副綱隆さんである。海より遠い方から順番に塩田が作られ(干拓され)、それによって堤防も次々と作り変えられた。この開拓は江戸から明治にかけて行われたそうだ。
川副綱隆の記念碑によると、
明治 37年 6月20日 埋め立て許可
明治 39年10月22日 潮止
明治 45年 5月30日 竣功
このようにかかれていた。
また、中通とは江戸時代の佐賀藩(鍋島藩)と唐津藩との間に属し、主要道路が走っていたことより名づけられたらしい。伊万里は昔このように二つの藩に別れていたため、北と南では言語もいまだに少し違うらしい。中通は佐賀藩に属していた。
このしこ名に浜や海という漢字が出てくるのも昔中通が海だったということの影響に違いない。
川副綱隆(1859−1942)
川副与左衛門の長男として佐賀藩に生まれた。幼名は源太郎であり、父は佐賀藩の武士であった。1871年(明治4年)にはんはいしとなり、父に連れられて伊万里に移った。
鍋島藩は伊万里(瀬戸町)に馬を育てる牧場を持っていた。そこが牧島で、もとは離れ島だった。
この川副綱隆が大干拓で牧島を開いて今の牧島山へと至るのである。また、川副新田もこの人が切り開いた土地であるという理由で名づけられたものである。
屯衛島
川副綱隆の記念碑のある場所のことを屯衛島といい、昔、
外部からの侵入者がいないかどうか監視するために侍が駐在していた場所だといわれる。また、侍を招集するとき
にこの場所を使ったといわれる。
ぐそく石
上記の屯衛島の北西にある丘ほどの地域、それが牧島山である。この地域のある民家を”なだべ”という呼び名で呼んでいるらしいが、これはおそらくこの民家の周りが昔海だったことをかんがえると、“灘辺”と書ける。このようにつなげると、牧島という島が存在していたという一つの理由になるのではないかと思った。
話はそれたが、この牧島山の海面(ぐんずら)にぐそく石という石がある。これは”なべとみひょうごしげやす”(漢字はわからない)という人が中通についてどのように家をおき、開拓し、畑をおこうか、また水路、生活は?などのさまざまな疑問についての一貫した考えを生み出すときに座ったものといわれている。すなわち中通の構想を練るときに座った石だ。いいかえると中通の生みの親なのだそうだが。
実際、古文書には塩田についての文章が主に書かれているそうだ。これは行書でかかれていた。
もう昼1時30分になろうとしていた。昼食を一緒に食べるよういわれたが、勝手に押しかけておいて昼食までいただくのはさすがにできず、区長の家の場所だけ教えていただいて、お礼を言って立ち去ることにした。中島さんの家には、明治時代の”塩”の品質査定における賞状が飾られてあった。区長の家へと向かう。
区長は午後からは在宅していて、話を聞かせてもらえた。ただ、既にもうあまり中通について尋ねることがなく、逆に困ってしまったが、しこ名を多く聞くことができた。それから中通の歴史も少し聞けた。
農業の歴史
何度も書いてきたが、ここ中通は昔海だった。それは水田を1メートルくらい掘ると、貝殻が出てくるということでわかる。
明治以前は、水田は塩田となっていた。塩竃があったことでもわかる。(ただ、既に塩竃というのは呼び名になっていて、粘土と石灰でできた釜石がまつってある。)また副業として焼き物もあった。そしてこれは白浜方面にあったのだが、せんべいを焼く煙突のようなものがあった。地元の人は、”せんぺい”と言っていたが。
大正、昭和時代は、塩田から水田へと移り変わり、また、副業として酪農を10軒ほどしていたそうだ。(乳牛)
現在は水田のほかは、いちごやきゅうりなどの野菜を栽培している。
#米−−−昔の米の種類は、”れいほう”、”にほんばれ”
現在は、”あこがれ”、”ひのひかり”
伊万里市の歴史 −佐賀藩領の塩づくり−
旧佐賀藩領の瀬戸町や木須町、東山代町長浜、山城町鳴石などには、近世(江戸時代)に塩田があった。
特に瀬戸町や長浜の塩田は、慶長19年(1614)から元和3年(1617)までの間に瀬戸町へは、柴藤藤右エ門、吉浦利右エ門、長浜へは、武藤九郎兵衛、志田弥左エ門などの技術者を筑前国(福岡県)から招いて開かれたそうである。佐賀藩祖、鍋島直茂は領内で塩ができるようになったことを喜び4人を多布施御屋形へ招いて杯をくだされたそうである。
塩は藩主へ献上されるほかは自由販売とされ、寛政年間(1789−1800)頃には”伊万里塩”と呼ばれて近隣諸国にも名が高かった。
しかし、塩竃をたくための薪の値段があがったことや、藩が塩を安く買うようになったこと、天保年間(1830−1843)頃に唐津藩領や平戸藩領にも塩田ができ、競争が激しくなったことなどを理由に佐賀藩領の塩づくりは難しくなっていった。近代になると明治政府の不良塩田整理の方針によって伊万里湾岸の塩田は次第に狭められ、瀬戸町では大正4年になくなってしまったらしい。
電気−−−大正10年頃
ガス−−−昭和40年前後
研修を終えての感想
最初に、佐賀研修に行くと聞いたときとても面度臭くていやだった。
しかし佐賀県の伊万里市は都会のごみごみしたところとは違い、のどかで気持ちの落ち着く場所であった。
現地の人と話しをしたが、みんなとても親切丁寧に話してくれた。村の人は年配の方が多かったが、みんなとてもいい人たちだった。
また、むらの住民の関係もよく、のんびりとした穏やかな時が流れていた。
時がたつにつれて、しだいに古くからのしこ名は完全になくなってしまうと思うが、僕はいつまでもそこの歴史とともに語り継がれていって欲しいと思う。
佐賀研修は僕の貴重な体験のひとつになったとおもう。
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