2014,10,1 福田千鶴『豊臣秀頼』歴史文化ライブラリー
福田千鶴さんから、『豊臣秀頼』をご恵与いただいた。お礼申し上げます。福田
さんは、前々から秀頼実子説(秀頼は秀吉の遺伝子的な実子)だった。今回も実
子説に沿って自説・旧説を補強している。この本でも冒頭から服部の非実子説
は論ずる価値はないとし、否定する。その確信は、新史料である京極高次書状
(磯野文書)にあって、茶々(淀殿)名護屋在陣の「確かな証拠」だとしてい
る(13頁)。懐妊の夜、茶々(淀殿)が秀吉といっしょに肥前名護屋にいて同衾
したのか、秀吉とはいっしょではなく大坂城にいたのか。服部は在・大坂城説
にたって、非実子説を展開した。福田さんは名護屋在陣を証明すべく、高次書
状を著書の冒頭におき、導入とした。よほどに自信があったようだ。しかし、
わたしにはどこが論点・根拠になって、「確かな証拠」となるのか、わからなか
った。
第一、福田さんはこの手紙が書かれた段階(五月)、妊娠6ヶ月の茶々は名護屋
にいたとしている(20頁)。そして手紙のなかの「大坂殿」は茶々だとしている
(16,19頁)。名護屋にいた人物を、はたして「大坂殿」というのだろうか。
女性(貴人)は住んでいた御殿の所在地で呼ばれる。拙著でも触れたように、
このあと五月二二日での秀吉手紙でも、茶々は「二ノ丸との」と呼ばれている。
茶々がこの間、大坂城二の丸御殿にいた証左である。名護屋にいた京極高次が、
手紙の中で「大坂殿」(=茶々)という場合も、その女性は名護屋ではなく、大
坂にいた。なお高次妹の龍子は名護屋城にいた。山里丸の御殿の主であれば、
おそらく山里丸様と呼ばれたと考える。
第二。書状を歴史史料として扱う時は、いつ、だれが(差出人)、だれに(受取
人)、どこから(発信地)、どこへ(受信地)、送った手紙なのかを明らかにし、
それをふまえた上で、内容の検討に入る。この高次の手紙には宛先がない。受
取人がわからなければ、内容から推定する。この書状は西島太郎氏によって紹
介された(『松江歴史館研究紀要』1)。むずかしい仮名書状で、すらすらとは
読めない。内容も、当事者にしかわからない書き方で、込み入ってもおり、す
こぶる難解だ。西島氏の尽力に敬意を払う。その西島さんによれば、宛先はマ
リア(=高次母、京極マリアとも、浅井マリアとも)の侍女。侍女は手紙の伝
達係なので、つまり母親宛である。京極高次は近江八幡城主で、この時秀吉に
従って、名護屋に在陣中。おさきという侍女を妊娠させた。高次の妻=初(茶々
妹)は子に恵まれず、嫉妬、そして世継ぎ問題の不利から、おさきを殺そうと
したようだ。追っ手を出したともある。4ヶ月後にぶじ、おさきが生んだ子は、
後の京極忠高で、藩主となる。手紙は大坂にいる妻の手から、いかにおさきを
守ればよいか、その相談・依頼状だった(この書状一点からでも、小説ができ
そうな興味深いもの)。苦心算段、高次は妊娠5ヶ月、大きなお腹のおさきを、
家臣の嫁にやって、当面ごまかし、時間を稼ぐという、あきれた案を考えつい
た。しかし、遠くにいるから、自分ではどうしようもできない。解決に、近江
八幡にいる母を頼ったというのは、いかにも自然。むろん仮名書だから女性宛
でよい。しかし福田著書では、受取人がだれなのか、言及がない。大坂御局を
当事者であるお初だとしている西島説への言及もなく、大坂御局は茶々の老女
で大蔵卿局=大野治長母と判断した(17頁)。基本を踏まえない解釈だから、当
然あぶない。この手紙にて、大坂年寄、大坂女房というのならば、いずれも京
極家大坂屋敷にいた年寄、女房になるだろう(むろん初は淀殿の妹ではあるが)。
福田氏は文中の大坂お局、大坂女房などを、ことごとく茶々の組織(大坂城二
の丸御殿)にいた人と考えているようだ。しかしこの手紙のような内輪の人間
関係なら、茶々周辺女房が登場する余地はない。大坂お局がお初でなければ、
文意不明である。それにしても浅井三姉妹(茶々、お江よ=おごう、初)の気
性の激しさ、荒さはすさまじい。織田家の遺伝子だろう。みたとおり、高次の
妹=秀吉側室京極龍子が、最終的に忠高問題を仲介した。龍子は浅井三姉妹の
従姉で、親類である。しかし性格はおおちがいで、穏やか、それで秀吉のお気
に入りであった。しかし眼中に茶々ひとりしかいないかのごとく、みな茶々に
結びつけていく福田さんの論法は正確さに欠け、恣意的である。
第三、福田さんは高次書状に記述のある、茶々の妊娠が慶事としては扱われず、
大坂城でも秘匿事項として扱われていたことを、服部批判のキーにしている。
わたしにはその意図も文脈も読み取れなかった。5月8日の段階で、肥前名護屋
にやってきて、茶々妊娠を報告・相談した北政所使者=老女東(大谷吉継母)
を前に、秀吉は、茶々妊娠=秀吉子としての認知を決定、一部関係者(高次ら
近親者)にはオープンにされた。だが大坂では依然、初を含めて、秘密厳守と
いう段階にあった。拙著では、老女東の到着を、5月15日か、それ以前として
いたけれど、この史料によれば、5月8日以前であって、5月の初めになる。秀
吉は北政所に、返事を書かなかったことをわびている。20日以上も未返信だっ
たからだ。この間、いくらかは気持ちの揺り戻しもあったのだろう。さすがに、
長く待たせすぎたから、わびた。秀吉は、返事を書く気持ちにならなかった。
この好史料から、茶々妊娠には秘匿性があったこと、なぜなら疑惑の眼が向け
られていたから、という服部の提示が補強された。
福田著書には「疑う余地がない」といった断定表現がある。服部は、研究者は、
疑って、疑って、疑い続けて、初めて仕事ができる、発見は疑うことから始ま
る、と考えている。そこが、ちがい。当時の人はみな疑っていた。それにも関
わらず、古典学説、桑田忠親らの老大家は何も疑わなかった。もうそろそろ、
古典の呪縛から自由になろう。
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